
用法用量を適切に。〜ハロプロヲタクの処方箋〜
誰かのためのヲタ活ではない。
以前ハロプロヲタクとしての「楽しみ方」について書きましたが、本文中にあった「処方箋」としておそらく皆さんがもう少し掘り下げて欲しかったであろう「席運」についてと「無理のないヲタ活」について抽出して【私個人の考え】を書き綴りたいと思います。
「席運」と「思い出の誤謬」
- 良席とは?(後出しで○ソ席になる時もある。)
- 何が損なのか
- 上方比較は損失で下方比較は報酬
- 思考実験:参加者が自分一人のコンサート
- 見えているもの感じているもの
- 記憶の殆どを忘れた先に残るのは
良席とは?
いわゆる「良席」ですが、その定義は人によって大きく異なります。ただ、大きく共通する要素としては「ステージから遠い」という一点は共通項に近いと言えるかも知れません。しかし無事に「良席」と自身が定義したものの当日会場に入ってみると前方や両隣、真後ろ席の「体格」や「応援の仕方」だったり、会場の構造だったり、セットリスト由来によるメンバーの場位置だったり、当日のメンバーコンディション(何らかの事由のため欠席)だったりと予測通りにはいかない場合も多くあります。
何が損なのか
同じ「抽選」という条件によって中央最前列から2階(或いは3〜4階)最後列まで席位置の条件の幅が広く、それらが「同一料金」であることは「不本意な席での」入場後の不公平感を増長させるように思えるかも知れませんが、当選した席が最後列であっても「反転させた抽選の可能性」を考えるとそのイライラの「矛」は収めるしかありません。
上方比較は損失で下方比較は報酬
会場内における「席」による自己位置が及ぼす感覚は最近の脳科学研究?による結果の「ものさし」に当てはめると腑に落ちるかも知れません。つまり、自分より前にいる人を見て「損をした気分」になり、自分より後ろにいる人を見て「(まぁまだマシだろうと…)得をした気分になる」のは興味深い脳の反応です。(わざわざ後方客席を見て「得をした気分になる」のもなかなかに寂しいマインドですが)
※席運に関しては「転売チケット」(そもそもの当選率の低下要因である事や、良席/プレミア公演の高額転売)の問題を避けて通る事はできませんが「問題の質」が異なるのでここでは触れません。転売については私の見解の一部として過去記事をご参照ください。↓
思考実験:参加者が自分一人のコンサート
客席は最前中央にいる自分一人だけ。応援するのも自分だけ。公演後に感想を共有できる人もいない。(開催された事が他の誰も知り得ない公演である)そんなコンサートは観客として楽しいでしょうか?
表現者の立場だとして想像しても通常のコンサート同様(それ以上でも)のギャランティーを受け取ることができたとして毎回続けるこモチベーションは湧くのでしょうか。(もしかしたら割り切れる人がいるかも知れませんが果たして「表現者」の定義に当てはまるかは疑問です)
ステージ上のメンバーが客席が満員であること(或いは空席があったこと)に関して気持ちを表明する場面には何度も遭遇しました。つまり全ての客席の成員がステージにいるメンバーの力になっているのです。
コロナ禍で行われた「無観客配信」時の気分がその答えに近いかもしれませんが、体験したみなさんはどのような気分だったでしょうか。私は率直に言うと「残念で悔しい」気持ちが残っています。(過去の事についてたらればを語ってもしょうがないですが。)その残念で悔しい気持ちはどこから来たかというと「メンバーに応援者としての気持ち(そこにある存在)を表現できない/ステージからの一方通行」だったからです。
見えているものと感じているもの
ライブ体験がもたらす感覚は他の何にも変え難くDVDなどの映像媒体では再現できない物であることは皆さんも感覚的に当然として理解できるでしょう。席に関係なくその空間にいることの価値がライブ本来の意義であることは明白です。
記憶の殆どを忘れた先に残る物とは
「その場所、その時間でしか体験できなかった事実」が全てかと。どんな席であっても終演後に語られる内容は「見えたもの」の印象よりも「高揚した気持ち」である場合が多く聞かれます。よくいわれる「言葉にできない」や「エモい」などの言い回しはつまり「メンバーの誰それが何をした」ことよりも「どう感じたか」が楽しさとして優先されている証明になるのではないでしょうか。いわんや、どの席であったかは過去になるほど覚えていないかと。
「行けない(行かない)現場」と無理のないヲタ活
- 誰かのためじゃなく自分のため
- お話し会を「積んでしまう」
- ライバル?
- 「神現場」と「酸っぱい葡萄」
誰かのためではなく自分のため
使い古された言い回しですが「行けない公演に関して行けないことを出演者に伝える必要は無い」(むしろ伝えない方が良い)。とは至言ですね。何かに対価を支払うのは自身の意思であり相手(演者)がその責を問える道理はありません。もちろん出演者は「来てほしい」のは当然ですがそれを強制することはできませんし、なにより「自分」以外に判断を委ねる無責任な態度は「依存」でしかありません。
お話し会を「積んでしまう」
「積む」はスラングで、いわゆる「お話し会」などの(メンバーとのコミュニケーションイベント)参加券を一人でたくさん購入することです。社会的な動物である「人間」の宿命である【承認(認知)】は非常に強い依存性があることは多くの学者も指摘しています。楽しい事にどれほどのリソースを割くのかは個人の自由ですが、その判断の後に「何かしらの後悔」があるのであれば明らかに自身のキャパシティをオーバーしているのではないでしょうか。
ライバル ?
あなたは「知らない(或いはよく知っている)誰か」とステージ上のメンバーからの「承認」を競っていませんか?その「承認争い」の先には何があるのでしょうか。
「みんなの憧れの象徴」が、なんらかの理由によりその座から引き下ろされる出来事は、クラスメイトから芸能人まで事の大小を問わず過去の事例に事欠きません。「人気」をその力の源としているアイドルが、あらゆる場面でどのような所作を最適解としているかは想像に難く有りません。
「神現場」と「酸っぱい葡萄」
行っていない現場は「行っていない事実があるだけ」です。SNSや後日談で「神現場」と言われる出来事があった公演は参加した人の中で「そう思う人が思っている」の意味合いの言葉でしか有りません。翻って自分が参加した公演が自分にとって素晴らしければ「神現場」と発信しても良いかと思います。なぜならばステージ上の演者は毎回それぞれ、今ある全ての力をもって表現してくれているのですから。
自分が参加できなかったからといって、自分の応援している対象が気持ちを込めて行なっているステージやイベントに対して「つまらない公演であっただろう」などという陳腐な想像を巡らす「酸っぱい葡萄」とすることは、自分の大切にしている「相手を思う気持ち」を毀損する自傷行為です。
まとめ:楽しさの決定権は自分にある
ここまで私の個人的な考えをそれぞれ書き並べてきましたが、読んでいただいたみなさんはどのように感じたでしょうか。もちろん「そうじゃない」と思う事柄もあるでしょうし「そんな考え方もあるんだな」と思ったかもしれません。この記事がみなさんそれぞれの現在地と進みたい方向を見極めるなんらかの手がかりになることがあれば幸いです。
月並みな言い回しですが、世の中は自分の欲求の思うがままに行動することはできません。「自分の出来ることの内側」で最大限に楽しめる事がヲタクとしての「充実感=逞しさ」となるのではないでしょうか。
蛇足:発想のヒントになった2冊の本
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